命の循環を思う夏~生きることの最終ゴールとは
今年は立て続けに友人を見送りました。
新盆だから、きっとご家族の元にすっ飛んで帰ってきていることでしょう。
わたしにとって夏のイメージは、なぜかちょっと切ないです。
お盆も花火も終戦の日もどれも命の儚さと重なるからなのでしょうか。
なんのために?
朝、ベランダの手すりに、大きなアブラゼミがとまっていました。
片方の羽根が欠けて、どことなく生気が薄い感じ。
命が尽きかけているようです。
蝉は、何年も地中で過ごします。
羽化した後は、ただ次の命をつなぐために生き、そして、死を迎えます。
蝉は、死ぬために陽の光の下に出て来て、空を飛び、つがいを見つけ、新しい命を生み、そして果てる。
地中にいる蝉は幸せなのだろうか?
ふとそんな思いが浮かびます。
楽しいことはあるのだろうか?
外に出たいと思うのだろうか?
陽の光や風や木々に憧れるのだろうか?
生の先にあるもの
人生で描く最終ゴールや夢は、羽化した蝉の最後の姿と似ているかもしれません。
それを想い描くこと、そこに向かうことが、蝉の幼虫ならば地中で生きる長い人生で、繰り返される日々の糧となる。
それは、叶えられるためのものと言うよりも、今をより輝かしく生きるためにあるもの。
そして、その夢が本当に叶って最終ゴールを達成するとは、つまり、今生を全うして死ぬことです。
わたしの一番大きくて一番遠くにある夢。
それは、心から満足して生を終えること。
死を迎えるときがすなわち夢が成就する瞬間になります。
どんな一生を生きたいですか?
わたしたちの人生と蝉の一生は、あんがい似ているようです。
だから蝉を見ていると切ないのかな。
古くからわたしたち日本人は、蝉の抜け殻を空蝉(うつせみ)と呼び、それを現世の身(うつしみ)の儚さに重ねました。
生死観にまつわる、そうした感性は、21世紀を生きるわたしたちの心の奥底にも、脈々と受け継がれているのでしょう。