年齢という幻想から目覚めると人生はおもしろいほど変わる
とてもすてきなニュースがありました。
100歳になる女性が、長い歴史を持つ毎日書道展で佳作賞を受賞。
百人一首に出てくる紫式部の和歌を、美しいかな文字で書き上げた受賞作は「仮名の優雅さを爽やか、流麗に書き上げた。100歳とは思えぬ若々しい作品」と評価された。
その女性が書道を始めたのは55歳の時。45年間の努力と継続が100歳での受賞に結びついた。
同展の長い歴史の中でも、最高齢の受賞。
ニュースにお写真が載っていましたが、きちんと伸びた背筋、筆を持つ手の、しっかりとした構え。とても若々しいお姿です。
「筆を持つことが長寿の秘訣。もっともっといい作品を書いていきたい」とのこと。
書を愉しみ、そして、もっと上をと望む意欲。
それがきっと、彼女の若々しさを生み出しているのでしょう。
年齢って、なんでしょうか?
彼女が55歳で書道を始めた時、もしかすると周囲の人に、「え、その年で?」とか「今さらムリじゃないの」とか、冷やかされたり、笑われたりしたかもしれません。
残念ながら、日本ではよくあることですよね。
もう歳だから・・・
いい歳して・・・
まわりからそう言われ続けていると、ついつい、そんな言葉で自分を制限したり、あるいは、挑戦する怖さを乗り越えられずに、年齢を言い訳にしてしまう。そんな経験が誰にでもあるのではないでしょうか。
あらために、もう一度自分に問いかけてみてください。
「年齢」とは、いったいなんなのか?と。
肉体年齢?――個人差ありますよね。
何年生きてきたか?――その内容にも、個人差ありますよね。
子供の頃はともかくとして、今の日本で一人の大人の国民として社会的な権利と責任が認められている20歳になったなら、そこから先の年齢の意味は、その人次第。わたしはそう思います。
機械的に考える「生まれた年から何年目」という数字は、社会制度の運営上必要があって使われているものでしかなく、「わたし」という生きて活動している個人の状態を言い表すものではありません。
とかく年齢を気にするわたしたち
日本ではなぜか、年齢が話題になります。
人にも、つい、年を尋ねてしまったり、○○歳なのにすごい、とか、その逆で、○○歳にもなって(否定的な言い方として)とか……。
年齢が、何かしらの判断、評価基準の一つになっている。
これは、儒教思想の影響などとも言われます。
社会文化の問題なのか、政治的な問題なのか、行政の問題なのか、わたしにはよくわかりません。少なくとも、以前わたしが1年弱ほど滞在していたスペインでは、年齢を聞かれたことは一度もありませんでした。
人の行為や有り様に対する評価に、その人が何歳だから、という条件は含まれていないんですね。
これはもちろん、大人の場合ですよ。小さな子供が、大人顔負けのことをすれば、まだ〇〇歳なのにすごいねって言います。
でも大人になって、〇〇歳なのにすごいって褒められたら、なんだか嬉しくないと思いませんか?
だって、それは本当にわたしを認めてくれているの?
わたしという個人がどうのじゃなく「○○歳の女が×××したからすごい」ということじゃない?
条件があっての「すごい」であって、本質の「わたし」が「すごい」わけじゃない。そんな風に感じてしまうんですよね(ちょっとへそ曲がり?)。
年齢を人生の尺度にしない
その逆も同じです。
何歳だろうと、人生を何年やってこようと、出来ないことはあるし、苦手なこともある。いまだに乗り越えられないこともある。
それを年齢でひとくくりにするのは、乱暴だなと思います。
でも、少なくとも日本にはそういう評価の文化があって、その感覚は否応なくわたしたちの無意識に多かれ少なかれ、刷り込まれています。
この無意識というのが曲者なんです。
わかってはいても、ついうっかり「でも、もうこの歳だし‥‥」なんて口にしたことはありませんか?
本心ではそう思っていないはずなのに、口癖、というか、常套句的に出てくる。
これがアブナイのです。
なぜなら、自分で口にした言葉は、自分の心に効いてしまうから。
心にもないことは決して口にしてはダメです。
そして、しょっちゅう耳から入ってくる言葉(つまり人から言われること)は、いつの間にか心の奥深くに刻みつけられていきます。
よく、小さな子供さんがお母さんにそっくりの口調で大人びたことを言ったりしますよね。ああいうことです。
ご両親や身近な人が、年齢を「制限」として捉えていると、どうしてもあなたにもその感覚が沁みついてしまいます。
そういうものは、意識して書き換えておかないと、思わぬところであなたの大事な選択の足を引っ張ることになりかねません。
だからもし、うっかりと「でも、歳だから・・・」と言いそうになったら、断固として、それを取り消しましょう。否定しましょう。
年齢の縛りなんて、幻想に過ぎないんだと、自分自身にきっぱりと言い返しましょう。
自分の年齢は自分が決める
あなたの本当の年齢を決められるのは、あなた自身です。
生まれてから何年経ったというだけの社会制度上の数字に、人生的な意味はありません。
さあ、あなたは今、何歳ですか?
ちなみに――ですが、わたしは35歳と決めています(いまのところは)。
なぜ35歳なのかというと、その頃の自分の状態がおもしろいと思うから。
大学を卒業して社会に出て10年ちょっと。本当にさまざまな思ってもいなかった経験をして、いろいろなことを身をもって体験して、でもまだまだ若くて未熟で、怖いもの知らず。あの頃の自分が楽しいな、と、思うのです。
バカなこともいっぱい、やらかしていた年頃です。反省点も多々あります。
そこから人生経験を重ねてに重ねて少しずつ大人メンタルに成長してきた今の自分と、35歳の頃のやんちゃな自分のイメージを重ね合わせる。今のところそれが楽しくて心地よい。
ま、ちょっとした遊び心です(^^;)
遊びついでに、何でもやっちゃいます。
いくつになっても誰だって「やればできる子」ですから。
【注】人生ナビ的「やればできる子」とは
わたしはよく「やればできる子」という言い方を使いますが、これは、やればできるのにやらない子の意味ではなく(世の中的にはこっちで使われることが多い?)、できることはなんでもやってみる子の意味で使っています。
ここでいう「できること」とは、やりたいならチェレンジする状況がある、ということです。たとえば、ピアノを弾けるようになるのが夢だったとして、還暦過ぎてショパンコンクールを目指すことは不可能ですが、ピアノ演奏にチャレンジすることはできます。そういう意味合いです。