老害になるか老賢人か~どちらを選びますか?
自分はすべてを知っていると勘違いをして、学ぶことを忘れてしまった人間が、ずうずうしい生き物になります。世の中をなめ、謙虚さを失い、ふてぶてしくなることから、老化が始まるのです。
以前たまたまネット上で目にしてメモした美輪明宏さんの言葉です。
美輪さんは、とても大きな「愛」の人。だから厳しいことをビシッと言えるんですよね。
なんちゃっての甘ったるい似非愛ではないから。
本当に必要なこと、本質的なことを、大切にしろと言い切れる。
まさしく「大人」の人です。
学ぶことを忘れ謙虚さを失うと、精神が老化する
たしかにそういう人、身近でもメディア上でも時々見かけます。
世の中の善意を捻じ曲げ、改革の邪魔をして、一人悦に入っている。
信念を貫く意味での頑固さはいいと思います。
でも、それが凝り固まった閉塞的な意識から生まれるものであるなら、世の中に弊害しかもたらさない(せいぜいが反面教師ですね)。
「実るほど首(こうべ)を垂れる稲穂かな」と昔の人も詠んでいます。
学べば学ぶほどに、自分の無知を思い知らされます。
世の中にはフシギが満ちていることに気づかされます。
人智を越えた「なにか」があると、感じます。
自分の存在は、直接には関わることもない無数の人の存在によって生かされているのだと気づきます。
生きることは、日々学び続けること。
歳を重ねるほどに謙虚になるしかないんですね。
賢い年寄りが世の中を豊かにする
だからこそ、豊かに歳を重ねてきた年長者は、古来どの社会でも尊敬されてきました。
いわゆる老賢人的な存在ですね。
(老賢人のイメージと言えばやはりこの人、白のガンダルフでしょうか)
間違っても、老愚者(老害)にはなりたくありません。
とはいえ、魔法使いでもない名もなき一市民のわたしにできることなんて、ささやかなもの。それでも、目の前にいる人を笑顔にすることは出来るはずです。
ちょっとだけ、微笑みかければいいんです。
笑顔を向けられてイヤな気持ちになる人はいません(たぶんね)。
もし、それすらもできないとしたら、世の中に対していったい何が出来るというのでしょうか?
ご縁ある人、袖すり合う人を、一瞬でもいいから笑顔にする。
つまり、ちょっとだけ幸せにする。
そういう人間であろうと、ある時から心に決めて日々精進しております。
なかなか思うに任せぬことがあるとしても、少なくともそうであろうと努める気持ちをしっかりと持ち続けています。
自分も相手も世の中も幸せであるために
そのためになによりも大事なことがあります。
それは、まずは自分自身に微笑みかけること。自分を幸せにすること。
自分が悩んだり苦しんだりしている時に、人に心からの笑顔を向けることはできません。
自分がいっぱいいっぱいの状態では、人に配慮することはムズカシイ。
だから何事もまずは自分から、です。
自分が自分のゴキゲンに責任を持つ。自分の幸せに主体的でいる。
すべてはここにかかっています。
そして、これこそ、年齢重ねた大人だからできることだとわたしは思います。
笑顔は湧き出て来るもの。
相手の幸せを願う気持ちが自然と滲みだすもの。
ありがとうの思いが形になったもの。
素直に自然にそう思える心の状態。
それがまさに、自分が幸せだと感じられる状態です。
自分のため=相手のため=世の中のため
この3つは根っこが同じ。イコールでつながっている。
わけることができない。全部でひとつ。
この仕組みを心の底から理解して以来、生きることが本当に楽しくなりました。