人生の持ち時間を計算してみたら意外と少なかった

人生ナビな日々

ずっと時間のことを考えていて、ふと思い立ち、人生の持ち時間を計算してみたら、じつは意外と少ないのかもしれないことに気づいてしまいました。

今現在ここにいるあなたは、生まれてからどれだけの時間を生きてきたでしょうか?

たとえば今あなたが45歳なら、単純に45年。
普通はまず、そう考えますね。

では‥‥
今日は生まれてから何日目ですか?
人生の持ち時間を計算してみたことありますか?

違う尺度で捉えてみると‥

1年は約365日だから、たとえば今45歳なら、365×45年=16,425日。
ざっくりとした計算。まだ大まかすぎますね。

こちらのサイトを使うと、今日が生まれてから何日目なのか?を正確に知ることが出来ます。

これは便利ですねえ。いろいろなパターンで日数計算できます。

ちなみにわたしは20,000日を超えていますが、例えば「2万日」と聞いて、あなたはその日数を多いと思いますか? それとも、案外少ないなと感じましたか?

わたしはこの計算をしてみて、え、それだけなの?と思わず声に出して、呟いてしまいました。
 

生まれてから今日までに流れて行った時間(体験)を思うと、もっと膨大で長大な時の積み重ねを感じます。なのに、その記憶を日数で計算したら、たった2万日!

もっと宇宙規模の、捉え難いような数字を漠然とイメージしていたんです。それが「2万日」って……身近で日常的な数字じゃないですか。
 

時間が無限だという勝手なイメージ

わたしたちは【時間】という掴みどころのないものに対して、つい過大なイメージを抱いてしまうのかもしれない。そう気づかされました。

たとえば1か月だって、たったの30日。一年でわずか365日。

これをモノに置き換えて考えてみると「少なさ」が実感できます。
たとえば365枚の100円玉なら、あっという間に簡単に数えることができますよね。
 

つまり、その程度の規模の数字なんです。

一年ってあっという間だな、と思うのは、理に適っていたんです。
だって、たったの365日、なんですから。
 

1年というひとくくりの単位で捉えるから、長く感じてしまうだけ。一日という実感しやすい単位に換算してみれば、それほど長い時間ではないことが納得できます。

3年でようやく1,000日。小学校卒業の満12歳ではまだ4,380日。
27歳5か月でやっと生後10,000日です。

このぐらいの年齢になると、まあなんとなく人生というものが分かって来ます。それが生まれてから1万日の経験の結果だと考えてみると、どこか頷けるものがありますね。

でも、その時の自分の実感から過去を振り返ってみると、長い長い27年5ヶ月なんですよね。

これは言うなれば、時間のマジック。
数え上げてみたらそれ程でもないものが、計量できないもの(膨大なもの)であるかのように感じてしまう、ということです。
 

「一日一日を大切に」の本当の意味は

なにもせずにダラダラしていても、一日と言う時間はあっという間に経ってしまいます。
でもその一日は、人生のなかの貴重な一日。
心の有り方とか、生きる姿勢といった精神論ではなく、物理時間的に文字通り「貴重な」一日だったんです。

1週間の7分の1、1ヶ月の30分の1、1年で考えても365分の1です。
それを無為に、ムダにしたということです。
27年5ヶ月の1万分の1を捨てたということです。
 

これを倍にして55年生きても、たったの2万日なんですよ。
その2万日の内の、どれほどの日数・時間をムダにしてきたことでしょうか(>_<)

勘違いしないでください。だから一日たりとも休むな、と言いたいのではありません。
休もうと思って休むのは決してムダな行為ではないのですから。
「今日は何もしない!」と決めるのも、人生の選択、つまりひとつの「行為」です。

無為とは、何の意図も持たず、意志も持たず、望むイメージも持たず、ただ漫然と人生の時間を浪費・消費することです。
 

未来を思って今日を生きる

たとえばこれから先あと20年生きるとしても、7,300日です。

一日に出来ることの分量を考えてみたら、7300日は決して長い時間ではないと、わたしはそう感じてしまうのです。

有限である人生の何分の一の貴重な1日である今日という日を、どう生きるか?

わたしは、終わりの日が見えてから焦るのはイヤです。
だから、こそ、いまここを意識して自覚的に生きたい。
 

人生の日数計算をぜひ一度、試してみてください。
けっこうリアルな実感として「人生の時間の分量」を感じられるはずです。