その生き方をしていると幸せが逃げていく
子供の頃、具体的に言うと、親の経済力の庇護下にあった頃、ひどく窮屈な思いをして生きていた、という記憶があります。
実はわたしはずっと長い間、「幸せ」という言葉が理解できずに生きていました。
「楽しい」「うれしい」はわかります。
でも、幸せって、いったいなに? どんな状態? どんな気持ち?
わからないから、なにが幸せなのか、どうすれば幸せに生きられるのかも、当然わかりません。とにかく実感がなかったんですね。
それはおそらく、家庭環境の影響が大きかったのだろうと思います。
でもそれで幸せなの?
両親はマジメで愚直な働き者。終戦後の行動経済成長期に、北関東の農村から東京に働きに出てきて、そこで所帯を持ち、兄とわたしが生まれました。
身一つで都会に出て来た状態から、身を粉にして働いて家族を持ち、やがては小さいながら家も持ち、経済的なゆとりなどない中でも、なんとか子供二人を大学まで出してくれました。
立派なご両親ですね、 と、人から言われました。
確かにそうであるには違いありません。
でも、わたしにはどうしてもぬぐい切れない違和感がありました。
生まれてからずっと同じ家で暮らし、至近距離で両親を見ていたわたしの目には、父も母も、ちっとも幸せそうに見えなかった。生きることが辛そうだった。どこかいつもイライラしていた。
だから、二人の生き方に対しては、どうしても批判的・反抗的でした。
そんな生き方を立派だという世間に対しても、どこか懐疑的に斜めで見ているような子供でした。おかげですっかり天邪鬼のヘソ曲がりに育ちました(笑)
つまり、物事を言われたそのまま額面通りには受け取らない。
どんなことであっても、とにかく自分なりにそのことを考えてみる。
そんな思考のクセが、自然と身にしみついてしまったようです。
自分で見て聞いて考えるクセ
今になって考えてみると、そういう思考やモノの見方は、 その後の人生の様々な場面で大いに役に立っています。
つまり、人や社会が「こうだよ」と言って押しつけて来る価値基準を鵜呑みにせずに、わからないことであっても一応は、自分の頭で自分なりに考えることを自然とやっていました。
そのおかげで、つまらないセールスに引っかかって無用な高額商品を買わされることもないし、まんまと人に騙されるということもありません。少なくともこれまでのところは。
何かを選ぶとしたら、それは、相手がそう言ったからそうする、のではなく、多少なりとも自分で吟味して評価したうえで、自分の判断として選択しています。
だからたとえば、見ようによっては、いいようにカモられているように見えたとしても、自分が自分の基準で選んだことなので、「騙された!」とは思わないという意味でもあります。望んだ結果と違っていたとしたら、自分の考えが足りなかった、判断が甘かった。そう受け取ります。
自分が判断して選択した結果は、良くても悪くても、自分が生み出したものですから。
※もちろん、不当な対応や約束違反に対してはちゃんと異を唱えますよ。自分の判断ミスだから泣き寝入りするということではありませんので、どうか誤解のないように。
それを選んでいるのは誰?
選んだものが同じであったとしても、人に選ばされたのと、自分が選んだのでは、受け取る結果や、その行動のもたらす意味は、違ってきます。
今よく耳にする「自分基準」とか「自分軸」という言葉は、つまり、自分自身で主体的に選択しているのか?ということに関わっています。
やるのか、やらないのか?
欲しいのか、欲しくないのか?
相手に従うのか、従わないのか?
さまざまな場面で、わたしたちの行う一つ一つの選択の積み重ね。それがわたしたち自身の人生を作り上げていきます。
だからそこに「自分で選んだ」という基準がないと、同じことをやっても、満足度は低くなってしまうんですよね。たとえ結果的に上首尾に終わったとしても、それが自己肯定や自己評価につながらないから。
これを繰り返していると、一生懸命に行動しているのに、望ましい人生に変わっていくこともなく、表面的には成功を手に入れたとしても、なぜか生きることが楽しくない、満たされない、という現実が引き寄せられてしまいます。
わたしの両親に起きていたことは、まさにこれでした。
「ねばならない」の呪い
「親として○○しなくてはいけない!」
「女の子は○○なのが当たり前!」
「父親(母親)は○○であるべきだ!」
今思い出してみると、父も母も、ことあるごとにこういう言い方をしていました。
でも、そこに彼ら自身の本心・本音から生まれた価値感や理想はあったのでしょうか。
自分はどう生きたいのか?
自分にとって何が大切なのか?
人生の幸せや喜びとはなのか?
そういう深い想いや強い意思が、両親からは何ひとつ伝わってきませんでした。
窮屈な価値観に自らを縛りつけ、自分自身の手で自分を苦しめていた。
今のわたしには、そう見えて仕方がありません。これはとても悲しいことです。
「~せねばならない」
「~であるべきだ」
「~が当り前なんだから」
そうした言葉の裏にある行動基準は、たいていの場合、世間の常識と呼ばれるものです。
あるいは、その人が育ってきた環境の中で、気づかぬうちに意識下に刷り込まれた思い込みだったりします。
呪縛を解く鍵の見つけ方
世間の常識って何なのでしょうか。
それは確かに、世の中をスムーズに渡って行くための、ひとつの情報であるかもしれません。
でも、あなたもわたしも、この世界でたった一人、唯一無二の存在ですよね?
たった一度の、今この世での体験を人まかせにして、ただ無難に生きるなんて、もったいない!
そう思いませんか?
自分で選び取った選択の先にしか、自分の本当の幸せは見つかりません。
他人基準で生きる人生は、今ここにあるはずの幸せから逆に、あなたを遠ざけてしまうものです。
心理学的に見ても、脳科学で考えても、そしてわたし自身の短くはない人生経験から言っても、そうだと断言できます。
幸せはいつでもそこにある
人はすべて、十人十色。
顔かたちも体形も、性質も気質も能力も、みんなそれぞれに違っています。
だから当然、幸せだって人それぞれです。
何が自分の幸せなのか?
本当に手に入れたいものは何なのか?
それに気づくことができれば、実は、自分がすでに幸せなのだということが、心の中に鮮やかに見えてきます。
幸せは、どこかに探しに行くものではなくて、最初から自分の手の中に存在している。
「青い鳥」もそう言っています (^^)